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厳しさに学ぶ [教師・寺井の思考]

「ピイー」「何を考え、プレーしているのだ…」ホイッスルの音と大声が体育館に響き渡る。一瞬の静寂の後、再び激しい練習が始まる。これが、日々の体育館。人は厳しく叱られたり、注意を受けたりするということは、誰もあまり気持ちのよいものではない。また、叱ったり、注意をしたりする側も、出来るだけ、叱らずにすませたいと思うことが常である。そのせいか、最近は学校、家庭、地域社会の中で叱られることが極端に少なくなり、叱ることへの不安と叱られることの不満が、大きくなってきている。しかし、今の我々にとって、叱り叱られ、注意し注意されることは極めて重要ではないだろうか。
 例えば、日々の学校生活において、どんなに小さいことでも、先生や先輩から、その足らざるところを指摘され、厳しく注意されるならば、多少うるさく、うっとうしく感じても、その指導を繰り返し受けることによって、徐々に自分のやるべきことが理解でき、実力がついてくる。そのためには、我々大人が信念に基づき、自信を持って指導にあたるということが大切である。生徒の側も厳しさに耐え、「ありがたい」という感謝の気持ちを持って受け入れる素直さを持たなければならない。これは、勉強や部活動に限らず、我々の人生においても、人間としての成長には欠くことのできないものである。
 我々の人生の先輩達は、きびしい鍛錬、修業を大切にしていた。武道においては、日々、早朝より道場に出て師匠や先輩達の厳しい指導を受けながら、血の滲むような稽古に励むことを求められていたし、一人前の商人になるにしても、丁稚奉公からはじめて、主人や番頭にビンタの一つも張られながら、商人としてのものの見方や考え方、人への接し方など身につけていった。もちろんそうした修業の過程には、好ましくない面もあったと思うが、少なくともそうした厳しさが、その人を鍛え、その人のもつ真の力、価値を発揮させることに大きく役立だったのではないかと考えられる。ところが今の生活の中に、そのような鍛錬、修業がどの過程で行われているのだろうか。もちろん個々の自主性を重んじ、その個性を生かしていくということは重要なことだと思う。しかしそれは厳しく教え鍛えるということと相反するものかといえばそうではないと思う。むしろお互いの自主性なり個性というものは、きびしい鍛錬の中でこそ、よりたくましく発揮され、能力もより一層伸びるものだと思う。
 今日も、私達の部活動で生徒達は、厳しい練習に歯をくいしばり、大粒の汗を流し努力している。それは日頃の厳しい練習が、人生、試合のピンチに実力となってあらわれることをよく知っているからである。だからこそ、日々の厳しさの中に、希望と夢を見出して練習に励んでいる。そのような厳しい鍛え合いをスポーツ以外の面でも、もっと増やしていく必要があるのではないだろうか。

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